玉城和美の描き絵空間

琳派の元禄文化「かきえ」を令和へ繋ぐ絵師の活動日誌

はじめての女川⑤




コバルト民宿のお客さんは、ほとんどがブルーカラーの男性。復興土木建築の現場関係者と原発技術者の方々だ。県外出稼ぎ組の社宅のようになっていたり、「高速と油代つかって仙台の自宅と往復するより、お母ちゃんには悪いけど、一泊二食付5400円のここで単身赴任する方が、利口で体も楽だから。」と5連泊赴任も多い。女川の海は美しいが砂浜がなく、サンマ水揚げ量日本三位の漁港なので海水浴はできない。女一人客は珍しいらしく、食堂で目が合うと「観光?」と尋ねられる。「私、絵描きなんです。」学生時代のように、今回は全身描き絵ファッションなので話は早い。京都からチャリティの準備で来ているとわかると「偉いねぇ〜。テレビ局くらい取材に来てもいいんじゃないの?」とか「お姉さんの仕事につながるといいねえ。」と真顔で応援の嵐だ。
全国ネットのマスコミでは上がってこない現地の複雑な話も色々と聞かせてくださった。被災した方々には本当に申し訳ないことだが、低迷する経済事情の中、自治体の復興事業のおかげで倒産寸前だった会社がいくつも助かったという悲しい現実。長年に渡って空振りに終わる津波警報に慣れてしまって、狼少年のように「ああ、またか・・どうせ又こないだろう」と逃げ遅れて被害にあった人も沢山いたこと。役所ごと町全体が流れてしまったため、女川が壊滅状態だということを世間に知らせる術がなく、二日間も陸の孤島になったとき、女川原発はいち早く避難所として活躍したこと。海難探索ヘリに向かって、皆で衣服を振り回して現状を知らせたこと。鈴木さん一家のように、着の身着のまま逃げて助かったものの、水も食べ物も4日間全く手に入らず、車の中でガソリンを節約しながら震えて過ごした人も大勢いたこと。女川から流れた新築の豪邸が流れてトンネルに詰まったおかげで、浦宿は助かったこと。
あと二年で復興住宅も完成し、女川は被災地ではなくなること。6000人に減少した人口、高齢化、昨年の新生児人口はわずか40人で新一年生は30人余りだったこと。もともと高校が石巻にしかなく、女川には若者の就職先もないためにどんどん過疎化が進んでいること。
毎日次々に、様々な立場の方から入ってくる断片的な情報に私の頭は困惑しつつ「これからが本当に大変なんだよ、どうしていく?」と皆が心の中で叫んでいるように感じた。

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