コロナ騒ぎ直前の一か月間、徳之島フィールドワークという貴重なチャンスを戴いた。中でも、障がい児通所支援施設「キノコにじいろクラブ」さんで過ごした三日間は、私にとって「絵画療育」という長年の想いを現実化する第一歩となった。その記録を画像と共にここに綴る。 平安女学院保育科卒業以来の教育現場。まずは子どもたちに受け入れてもらう第一関門で緊張したが、NPO代表吉村家の可愛い姉妹がお絵描き大好きで、すぐに意気投合100人力だった。徳之島でのホスト古田小夜子さんが主流スタッフとして強い信頼を得ていたおかげで、警戒心や排他的な視線が私に向けられることはなかったが、初日は焦らず。依頼されたウエルカムボードに黙々と島の美しいパパイヤとコーヒーの木を丁寧に描き、自ら子どもたちに働きかけることは避けた。これが功を奏したのか、後日「絵の好きな子どもたちが、黒板を描いていた人に会いたがっている。」と連絡が入った。
二日目は、高校の下校時刻にお迎えに行くスタッフ車両に同乗。道中ずっと私を観察しているが、話しかけても笑顔でスルーされる。園に到着後、お爺のコーヒー園で咲いた白い花を見て「一緒に描いてみてほしい」と、場を作ってくださったが、声がけしても参加しない子、すぐ飽きて楽器やトランポリンへ移動する子、せっかく描いた自分の絵を真っ黒に塗りつぶす子、弱い模造紙に対して、濃いアクリル絵の具と硬い筆は危険な遊び道具と化し、筆で紙を破って穴をあける作業に集中する子。残念な結果になってしまったが、「既に成果を上げている音楽療法と体幹訓練同様に、絵画療育にも期待して子どもたちの新しい可能性を見てみたいのだが、力を貸してもらえないだろうか?」と、ご自宅へ招かれて療育について詳しくお話を伺うことになった。
私が納得できるまで何度も打合せさせてもらって、画材店がない島で準備を開始。「玉城和美の描き絵空間」に何ができるのか?ハプニングを想定しながら楽しい空間づくりのために邁進する。多分、一番興奮していたのは私だろう。
吉村夫妻から学んだこと。一番大事な活動起因子として選ばれた動機付けは、「にじいろクラブの引っ越し先で、新しい教室に飾るシンボルとなるような、とても大きなタペストリーを一期生の皆で制作しよう!」次に大切な活動を終えることを知らせる言葉は、「もう帰宅時間なので、あとは先生が仕上げておくからお楽しみに!」であった。
ワークショップ当日、私はスーツケースの中から一番美しい色合いの衣装を着て行き、講師として紹介された。島でのスケッチを見せながら、「京都から来た絵描きですが、絵は上手ではありません。ただ、自分が美しいと感じる大好きな草木や動物の命を描くことが大好きで、完成した絵を見た人がいいねと共感してくださることが嬉しくて仕事として続けています。皆も下手でよいです。何でもよいから自分の好きなものを描いてタペストリーを一緒に作ってもらえるかな?どうぞよろしくお願いします。」と話した。
自由奔放やりっぱなしだけでは、芸術作品としては成立しない。展示に耐えうるクオリティで完成させたいが、制作中の子どもたちに対して禁止事項は一つも作りたくないので、つかう染料は画面で混ざり合っても汚くならないよう予め徳之島カラーを選んで調合。握力のない子でも持てるよう、目で色に魅かれるように透明ペットボトルを再活用して描きやすい濃度に溶いておいた。筆、タンポ、刷毛なども自由に選んでもらって制作開始!
養生の雨合羽を脱ぎ捨てて約一時間。床に固定した幅1m、長さ4mの綿布の周囲に座り込んで真剣勝負。各自のテリトリーを守りつつ、一枚の画布の中でスタッフも含めて全員が程よく緊張して共存している。全員が物凄い集中力で最後まで自分の描きたいものを丁寧に描いてくれた絵は、生き生きと踊っていた。
私はそのまま21時過ぎまで園に残ってスタッフの永井妙子さんに手伝ってもらいながら、一枚の絵として最低限のバランス繋ぎで加筆。完成させた翌日、島をあとにした。
3か月後、その素敵な成果物が「引っ越し先の広い活動室の一等席にシンボルとして誇らしく飾られた」と連絡を戴いた。キノコにじいろクラブHPの中央にも、子どもたちとのコラボ作品画像が堂々と掲載されている。https://www.unisontoku.com/
いつか再び徳之島へ行き、子どもたちと再会して作品と対峙してみたい。また地元京都でも絵画療育に関わることができたら…と思う。